神戸の中心地「三宮」にある「生田神社」は、三宮駅から徒歩5分で参拝できます。境内の北側には、平安時代の「枕草子」に記された「生田の森」があります。この森は、源平合戦の戦場になったことでも有名で、梶原源太景季が梅の枝を手折って矢の入れ物に挿し、挺身奮戦したことから「箙の梅」と呼ばれ、現在も境内に植えられています。
「生田神社」は、昭和13年の神戸大水害や昭和20年の神戸大空襲、そして平成7年の阪神淡路大震災など、幾度の戦災、災害を乗り越え、氏子や崇敬者の協力によって復興してきました。稲荷社の近くには樹齢500年の楠の神木があり、復興の象徴となっています。
稲荷社はインスタ映えスポットとして知られており、参拝者がお行儀よく並んで鳥居の前で記念撮影をしています。また、緑豊かな「生田の森」は都会のオアシスであり、金龍泉で占う水占いはよく当たると評判のパワースポットです。
以下に、オリジナル写真満載で紹介しています。
- 「生田神社」を動画で紹介
- 「生田神社」の主祭神・御利益
- 「生田神社」の御由緒・歴史
- 「生田神社」の住所
- 「生田神社」のお札授与所時間
- 「生田神社」の御朱印受付時間
- 「生田神社」の閉門時間
- 「生田神社」の駐車場
- 「生田神社」境内見取図
- 「生田神社」の一の鳥居
- 「生田神社」の末社・大海神社
- 「生田神社」の末社・松尾神社
- 「生田神社」の二の鳥居
- 「生田神社」の手水舎
- 「生田神社」の箙の梅
- 「生田神社」の楼門
- 「生田神社」の拝殿
- 「生田神社」の斎館の梅
- 「生田神社」の社務所の梅
- 「生田神社」の境内
- 「生田神社」の生田の池
- 「生田神社」の末社・弁天社
- 「生田神社」の末社・蛭子社
- 「生田神社」の末社・戸隠社
- 「生田神社」の生田の森・金龍泉
- 「生田神社」の末社・塞神社・雷大臣社・人丸社
- 「生田神社」の末社・楠の神木
- 「生田神社」の末社・稲荷社
「生田神社」を動画で紹介
「生田神社」の主祭神・御利益
主祭神は稚日女尊(わかひるめのみこと)。
伊勢神宮内宮にお祀りされる天照大神(あまてらすおおみかみ)の和魂(にぎみたま)、あるいは妹神と伝えられ、稚くみずみずしい日の女神様であり、物を生み育て万物の成長をご加護する神様として、ご崇敬を集めている。
稚日女尊は神代の昔、機殿はたどので神服を織っておられた。
稚日女尊は国民の生活の豊になる様、更なる繁栄と健康、また諸々の災いがなく家庭生活をお守り下さるご神徳があり広く信仰されている。
「生田神社」の御由緒・歴史
稚日女尊、活田の地に祀る
神功皇后(じんぐうこうごう)元年(西暦201年)三韓外征の帰途、今の神戸港にて船が進まなくなったために神占を行ったところ、稚日女尊が現れ、「私は活田長峡国 (いくたのながおのくに=砂山(いさごやま))に居りたい」と申されたので、海上五十狭茅(うながみのいさち)という者を神主として祀られた。
砂山(いさごやま)の大洪水で生田神社、今の場所に遷る
当初は砂山(いさごやま)、現在の新神戸駅の奥にある布引山に鎮座していた。
延暦18年(西暦799年)に洪水で布引の渓流が氾濫し、砂山西端が崩壊し、社殿が傾斜する被害が及んだため、生田村の刀禰七太夫なる者がご神体を背負い7、8日間鎮座地を探し巡り、生田の森に至った時、突然背負ったご神体が重くなりこれ以上歩けなくなった。これはご神意であろうとその場所安置した。
神酒を醸す宮
新羅からの客人に当社で醸造した神酒を振舞っていたことが伝えられている。
その由縁から毎年神酒を醸造し、新羅の客人が来朝するたびに邪気を祓う為、生田の地で醸された神酒を振舞った。
新羅の客人の罪穢れを祓い心身共に清々しくさせ、心を和ませるといった朝貢外交以上に平和外交上重要な役目を担っていた。
神戸の地名は生田神社から
大同元年(西暦806年)朝廷より生田神社の為にお供えする家、世話をする家、守る家である神戸かんべ44戸を頂いたとあり、この「かんべ」が「こんべ」となり現在の「こうべ」となったと伝わっている。
むすびの神曲
戦前より結婚式を行っている当社では宮城道雄師作曲の「むすびの神曲」という曲が三三九度の際に奏される。
この曲は我が国初めての夫婦神である伊弉諾、伊弉冊の2神が結婚の際に読まれた歌と素戔嗚尊の婚姻の歌を歌詞として奉奏している。
「生田神社」の住所
〒650-0011 神戸市中央区下山手通1丁目2-1
「生田神社」のお札授与所時間
9:00~17:00
「生田神社」の御朱印受付時間
9:00~17:00
「生田神社」の閉門時間
17:00
「生田神社」の駐車場
有料
「生田神社」境内見取図

「生田神社」の一の鳥居

「生田神社」の末社・大海神社

「生田神社」の末社・松尾神社

「生田神社」の二の鳥居

「生田神社」の手水舎


「生田神社」の箙の梅
「箙(えびら)の梅」は、源平合戦の際、梶原勢の「生田の森の二度の魁(さきがけ)」と言われた時に、梶原源太景季が、この梅の一枝を手折って「箙(えびら)」(矢の入れ物)に挿し、挺身奮戦したことによってこの名が起こったと伝えられている。


「生田神社」の楼門


「生田神社」の拝殿





「生田神社」の斎館の梅


「生田神社」の社務所の梅


「生田神社」の境内


「生田神社」の生田の池
拾遺和歌集を始め、順徳院百首、夫木和歌抄などに多く「生田の池」の詠歌が載せられており、当時より名だたる名勝として知られた池。



「生田神社」の末社・弁天社

「生田神社」の末社・蛭子社

「生田神社」の末社・戸隠社

「生田神社」の生田の森・金龍泉
生田神社の境内北側には鎮守の森が広がっており「生田の森」として親しまれている。
平安時代の『枕草子』に「森は大あらきの森、信太の森、生田の森」をはじめ様々な書物に記されている。
特に源平合戦の戦場になったことは有名で寿永三年(1184)2月には平知盛を大将とする平家軍が生田の森に陣を構え、一の谷から生田の森へかけて一帯が戦場となるなど、歴史的に由緒のある森。
文学史にもたびたび登場する「生田の森」また、昭和13年の神戸大水害や昭和20年の神戸大空襲。
そして平成7年の阪神淡路大震災など、幾度の戦災、災害を乗り越え、氏子や崇敬者の協力によって復興していった「蘇りの社」である。






かまぼこの発祥地
















「生田神社」の末社・塞神社・雷大臣社・人丸社

「生田神社」の末社・楠の神木
約500年の年輪をもつこの楠は、昭和20年6月5日の神戸大空襲で焼けただれたが力強く蘇り、再生・再起・合格・復活・復興の象徴として信仰されている。

「生田神社」の末社・稲荷社









